マイケル・マンリング「マイケル・ヘッジスとのAerial Boundariesの制作について」インタビュー(和訳) ※再掲載

2018年6月2日

article


Michael ManringさんがMichael Hedgesさんとの『Aerial Boundaries』の制作についてを語った記事である、『Michael Manring – On Recording With Michael Hedges Aerial Boundaries』の全文を空日和が和訳したものを、Michael Manringさんご本人から許可をいただけたので掲載します。

私の拙劣な英語力と日本語力によるものなので、何か不備にお気づきになった際はお教えいただけると嬉しいです。不慣れな私に気さくな対応で掲載を快諾してくださったManringさん、ありがとうございました。Thank you so much, Manring!

Michael Manring
On Recording with Michael Hedges on his album Aerial Boundaries
by fretlessbass
和訳 空日和 2015年11月5日

私は自身の経歴において、幸運にも、これまでにたくさんのレコーディングでの演奏依頼をいただいてきました。――それはついに200作品を超えました。そのなかで最も尋ねられるのが、Michael HedgesのAerial Boundariesについてです。Michaelは、彼の音楽によって全てを変えた稀なミュージシャンの一人でした。彼の創造性と構想は、彼にアコースティックギターを変則チューニング、打音の活用、両手によるタッピングなどの新しい奏法により、より広いダイナミクスレンジを扱える楽器として確立させるという、表現の視野の拡大を試みさせました。全てのこれらの技術とアイデアは、今日ではその分野の標準的な一部とされていますが、しかし、それらはMichaelによって始められ、そしてその分野の人々が最も心を動かされた彼のアルバムがAerial Boundariesです。

Aerial BoundariesはMichaelの2作目のレコードです。1作目はBreakfast in the Fieldという作品で、幸運にも、私はそちらでも演奏を任されました。私はMichaelと1980年に出会い、そのとき私は19歳で、ボルチモアのレストランでジャズを演奏していました。私はその地域で育ち、MichaelはPeabody Conservatoryで電子音楽を学んでいました。Michaelはその夜は演奏しませんでしたが、我々に彼のPAを貸してくれて、聴衆の一人として近くにいました。それはとても自由なセッションで、私は私のソロベースの短い一曲を最初のセットの最後に演奏しました。休憩時間にMichaelは私に、私がベースでしていたことをとても楽しみ、そしてそれに似たことをアコースティックギターで行いたくて試行錯誤をしていると話してきました。我々は話し込み、そして心を通わせ合いました。我々には多くの共通した音楽の趣味があるということに我々は気がつき、私は彼がポップやジャズやワールドミュージックを組み合わせた音楽、そして私が当時興味を持ち始めていた21世紀の音楽を楽しんでいるということをまったく知らなかったので、少し驚かされました。Michaelは(私を含めて)その名前を知る人もいない、Windham Hillという小さなレコード会社のためにデモを制作していると話してきました。彼は私にその中の何曲かを演奏してくれないかと尋ねてきて、彼のことを面白い人間だと思い始めたときから、私はその依頼を受けようと決めていました。

およそ6か月後に、私は私のセッションプレイヤーとしての初めてのLPのレコーディングであるBreakfast in the Fieldのための演奏のためにカリフォルニアへと飛びました。Windham Hillはその時期に大成功を収め始め、Michaelと私は多くのステージで共に演奏をしました。私は我々の旅の間、彼と音楽について長く語り合ったことを覚えています。――我々のしたいこと、我々の楽器でそれぞれができるであろうと思うこと、我々の希望、夢、そして将来の構想について。Michaelはいつでも関心事に集中できるという素晴らしい能力を持っており、彼の創造性が成長し、広がっていることは明らかでした。1982年か83年のある時期に、彼が新しい音楽の作曲のためにカリフォルニアの田舎にある彼の両親の牧場に滞在しに行ったことを私は覚えています。次に私が彼と会ったとき、彼は数曲の驚くべき新曲を携えていました。彼は本当に彼自身の新しいアプローチに熱狂していました。――私や彼がしていたそれをちょうど聞いた他の人々も、もちろんそうなりましたよ! 我々がその演奏を行った際、当初聴衆たちは時折笑っていました。――それがとても変わっていたからなのでしょうが、しかしMichaelが偉大な演奏者であったために、その夜の最後には、彼らはスタンディングオベーションをしていました。

Michaelは新曲を少しずつ録音し、いくつかの異なるアプローチに取り組んでいました。――彼は何曲かのソロの名曲、何曲かの心地よいバラード、エレクトロニックテープの曲を持っていました。――しかし、彼は彼自身が望んだものを全て持っているわけではありませんでした。ボルチモアでの我々の昔からの行きつけのショーの後のある夜に、我々は友人たちとの食事のために地元のレストランへと出掛けました。我々はそれぞれの楽器を車の中に積んだままにせずにレストランに持ち込んでいたので、食事の後、友人たちに何かを演奏してくれと頼まれました。我々はその計らいと、レストランのオーナーがそれを許してくれたことに喜び、そういった経緯で我々は早朝にかけてテーブルの周りに座り演奏をしました。MichaelはNeil Youngのカバーが十八番で、1人が『After the Gold Rush』をリクエストしたので、私はベースでそのメロディーを弾き始めました。Michaelのギターは彼の変則チューニングの状態でしたが、しかし演奏はうまく合わせることができ、そしてそのように奏でられる音にそそられました。私はそのことについて深くは考えず、そうして我々は友人のアパートへと転がり込みました。その次の日、Michaelは私を起こして言いました。「さあ、僕らが『After the Gold Rush』をレコーディングできるように、スタジオを予約しておいたよ」。我々は支度を済ませ、そのあたりで最も素晴らしいスタジオの一つであるSheffield Studiosへと車を走らせました。原曲のような表現ができるように、私はMichaelにその歌詞を書き起こすように頼んだのですが、楽譜の代わりに歌詞を読んでいることが少しおかしいと思ったことを覚えています。セッションはとてもうまく進み、Michaelは彼のビーズネックレスがギターにこすれた音が曲の導入部に入ってしまったことを少し気にしていましたが、我々全員がそれを良いものだと感じていたので、その日の作業は終わりました。

数か月後、我々が西海岸を行き来して演奏をしていたとき、我々はMichaelが我々2人と素晴らしいフルート奏者である彼の妻のMindyのトリオのために作った曲のレコーディングのためにサンフランシスコのMobius Recordingに立ち寄りました。その曲とは『Menage a Trois』のことで、それがAerial Boundariesのためにレコーディングされた最後の曲だったと思います。私はいつその録音の最終的なバージョンを最初に聴いたのかを覚えていませんが、しかし私はリリース前の原盤のカセットテープをまだどこかに持っているので、公式的にリリースをする日が来る前に、私はそれを確認しなければいけないと思っています。とにかく、まとめられた全曲を聴くことは喜びであり、そのテープは長い間私が最も聴いていた物でした。

Aerial Boundariesへの人々の反応は大部分がアンダーグラウンドなものでしたが、しかしMichaelがとてつもないものを創り上げたことは明らかであり、彼は2、3年間に膨大な回数の演奏を行っていました。アルバムはその年のグラミー賞のエンジニアリング部門にノミネートされました。――恐らく、どこにそれを置くべきか誰もわからなかったからそうなったのです! それはジャズでもロックでもクラシックでもありませんでしたが、しかし音楽社会はどうにかしてそれを認めたかったのだと私は思います。

Michaelはさらに5枚のアルバムを作り続け、私はそのうちの4枚で演奏をしました。それはおかしなことです。――私はAerial Boundariesにあまり貢献できていませんし、我々が一緒に作った他の物についても、良い気分ではありません。私はそのとき私の演奏におけるある種の分岐点を迎えていて、新しい音を求めており、しっかりとした状態ではありませんでしたが、しかし私は真の傑作に参加したことを常に誇りに思います。今日でも、Hedgesが20年前に創り上げた数々の魔法のような音を見習って励むギタリストたちのことを私は聞き、そしてそれはいつも私に喜びを感じさせます。もし、Aerial Boundariesが100年経ってもまだ人々が聴いているアルバムのうちの1枚であったとしても、私は驚かないでしょう。

悲しいことに、多くの天才のようにMichaelはあまりに若くしてこの世を去りました。カリフォルニアから彼の住んでいたメンダシーノへの道は誰もが危険だと感じるような道で、そして彼は空港からの帰り道の1997年の9月のある夜に、そこで車の運転を誤りました。我々は何曲かの新曲のレコーディングのために数日後に彼のもとで会う約束をしていて、彼がそこでどんな素晴らしいアイデアを用意していたのかが、私はいつも気になります。創造的で、おもしろくて感動的で、それでいて間違いなくユニークな何かを彼は準備していたことを私は知っています。彼は亡くなる前月に、ギターとのより深い関係を創り上げることについて多くのことを話していました。誰もがわかっています。――彼が新たな傑作を創造しようとしていたということを!